その流れを民芸の巨匠達は受け継ごうとしていた感があります。
民芸運動の陶芸家濱田庄司が、
若い作り手の面取りをみて、
「面取りではなく、面をとられえいる」とか言ったという、
逸話を聞いたことがあります。
面取りは柔らかいうちに、
へらやナイフのようなもので、
お芋の面取りのようにして、六面、八面と、
面をとっていきますが、
お芋は厚く面ととっても、
小さくなるだけですが、
器は、やりすぎると・・・向こう側が見えます。
かといって、それをおそれると、
重い器になったり、
面取りにスピード感やシャープな切れがでません。
そんな感じを濱田庄司は「面をとられている」と、
剣道になぞらえて言ったのでしょうか。

野波さんも、面取りの湯飲みやコップなどを作ります。
正直にはっきりといえば、
濱田庄司のいう面とられ的な面取りかもしれません。
穴を開くことを躊躇しているわけでも、
重いわけでもありません。
面取りは、フォルムを積極的に作る能動的な作業です。
そこには極端にいえば「いいかっこしー」というような、
格好良く見せようという意識がないと、
シャープでスピード感のある面取りが出来ません。

その意味では、野波さんの面取りは、
面とられ・・・・というか、
受動的に面取りをしているように、ぼくには見えます。
それが、不思議と・・・ぼくには好ましいんです。
無理をしていないというか、
杯土の個性のままに・・・、杯土の質感をそのまま表しながら、
厚くなく、手にして痛くなく、
面を取った角が欠けにくく・・・と、
杯土と使い手の仲立ちをしようとしているように見えます。
そう、角が立たないようにね。

別に躊躇しているのではありません。
上のコップのように、光りが透けるほど薄く切っています。
切るだけでなく、少し押し気味にして、
面を生み出しているようです。
このあたりに、野波さんの、
優しさと頑固さが見え隠れしています。
この心情を理解してもらうために、
これらを「面取り」は言わず、このさい「面生み」とか、
いっそ「角をたてない」に変えて、
「面生みゆのみ」や「角を立てないカップ」に・・・。
何て言うと、野波さんがびっくりしてフリーズしそうだな。
あくまでも、今日のブログの内容は、
ぼくの私見ですので、あしからず。
甘庵
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