あっという間でした。
無理を言いながら、毎年欠かさず続けくださっています。
ぼくにとって初めて納得いったガラスの作り手に会ったのが、
荒川さんでした。
互いに若かったなー。年齢的に・・・。
とはいえ、荒川さんの気持ちやテンションには、
ちっとも変わらず、いまだに大いに刺激を受けます。
ぼくはただ“うつわ”が好きというだけの新米の工芸屋。
荒川さんも工房を開設して間もない頃でしたが、
彼のガラスへの思いは、ぼくの気持ちにとても馴染み、
また沢山の事を教わりました。
「ガラスってやきものと違って、入れた物が見えるでしょ。
たとえば、ワイングラスにワインを注いで写真を撮るときに、
一番美しく見えるところまでワインを入れてとるでしょ。
でもね、食卓のワイングラスは、いつもその量のワインが入っているのではなく、
呑めば減っていくでしょ。
そのどのときでも、美しいと思えるワイングラスが、
減っていくの楽しめるタンブラーが作れたら・・・・」
衝撃でしたよ。
盛り映えのする“うつわ”や、
注がれてより美しくなるワイングラスは、
“うつわ作り”でも“うつわ屋”にでも、
目指す物でした。
でも、確かに中身の減っていくのがはっきり見えるグラスなら、
そこまで考えるべきなのかと・・・・。
そば猪口がはじめて出来たころにこんな事も言っていました。
「作っていてなんだけど、そば猪口はやはりやきものの方が、
ぼくはすきだだー。だって、そばつゆ入れて、薬味入れて、
かき回して、素麺やそばなりつけて食べだすと、
何かと残って、どんどんいろいろな物が見えてくる。
あれ苦手だなー」
うーん、この細かな好みは置いておいても、
作り手の感性としての細やかさには、
大変納得していまいました。

もしかしたら、そんな事もあって、
泡のグラスが出来て来たのかもしれません。
泡が入ることで、食べかけの素麺は目立ちにくくなりました。
清流の流れを切り取ってような、清涼感あふれる泡のガラスは、
夏の“うつわ”として大変人気をはくして、
荒川さんの特徴と思われるくらいになりました。
その後も、タンブラーやワイングラスなどのカップ部分を、
泡を入れずに作る物があるのは、
素地の澄んだガラスの注がれた液体の減り具合を楽しむためではと、
ぼくは勝手に思っています。
前にも書いたと思うのですが、
荒川さんのガラスの一番の魅力は、
自ら調合している澄んだ素地です。
あの澄んだ素地だからこそ、
デザインされた泡が、
煌めいて美しく見ることができるのです。
息を吹き込んで伸びて行く液体だったガラスの、
勢いと動きとを感じ取れるのだと、
ぼくは思っています。
閑庵
